心を解き放つ、座禅
先日、『禅(やヨガなど)が医学的にどう、効果があるのか?』に関するトピックでの講演会に行ってきました。講師の先生は、ハーバードでこの道の研究をされている方で、アメリカでは日本以上に、座禅が医療の中に取り入れられていることなどを知りました。
この座禅会では、わたしがいつもMeditationでやっているように『目を閉じて』行うのではなく、目を開いたまま、1Mくらい先の床をみて座禅をするように、と説明をうけ、 また、座っていると色んな思い(心の動き)が出てきて(例えば、今日の夜、何食べようか?など。)ひとは皆、その思いに『連想』をさせながら絶えず、頭をぐるぐると思いがめぐっている状態だということで、それを 「ただやりすごす」 とか 「連想しないで、そのままにする」 ように、言われました。 ところがコレ。 いまだ私は、できません。 絶えず、おもいが別の思いを呼ぶようで、いつも気づくと、何か考えている。。(汗) そして、どうやら足首と膝(そして股関節)が硬いため、座禅をしているといつも、脚が苦しくなって、心を静めるどこから、脚の痛みに心が集中してしまい、 「脚が痛い」とか 「あと、何分くらいなんだろうか」 とか、 挙句の果ては、静かな室内に響き渡る、おなかのきゅるきゅる。。という「はら減ったよ」サインを聞きながら笑みがこみ上げてきたりと、およそ禅が目指すところから、離れていってしまいます。 これがいつもいつもで、瞑想や座禅は、難しいもの、つらいもの、という考えが、心にしっかり根付くいていたようでした。 そのためどうしても、連想せずにいる、『無』の状態に至ったことがありません。 そんな、『無にいたれない自分』に直面するのがいやで、瞑想や座禅としっかり向き合ってこなかった、と言っても過言ではありませんでした。 今回の参加については、講演会の話が聞きたいということと、第二部では、ニ胡を聞きながら座禅をしてみる、という、これまで体験したことのない座禅であったことから、行きたいきもちがこみ上げてきての参加でしたが、たぶんそうじゃなかったら、座禅には及び腰であったと思うんです。 でも。 今回行って話を聞き、ニ胡の音色に心をとめながらただ座ってみて。 そして、曹洞宗のイベントであったこともあり、関係者のお坊さんや講師の先生と色々とおはなしをさせていただいて、気づいたのが、 「座禅をしているときに、「無」にならない自分でも、それで良いのだ」 「ただ静かに座って、心にあるものから、心を解き放つ、離すこと」 が何より大切で、 たとえそれが、Lotusがハーフであろうとも(半蓮華)、普通のあぐらであっても、あるいはいすに座っての座禅や、シャバスナの姿勢での座禅でも『あり』なんだということを知って、とても心がラクになりました。 正式な座禅を組む方からは、邪道 とも言われるやり方だとは思います。 でも、何もせず、心を静める手段を持たない人には、こういう導入法があることは、これも救いの道と、手を合わせずにはいられない、座禅会でした!
by amy-n95
| 2008-10-15 07:32
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